異動の辞令、なし。
それなのに3年目を終える私を差し置いて、今年度配属された新人が本部へ異動する。
意味がわからない。
いや、いろいろ背景に事情があり、職員の間でも議論を呼んでいるのだが、どうやらとりあえず筆者の人生は引き続きこのまま停滞するらしい。
正直に言えば、楽だ。
恐らく人員削減により抱えるタスクの関係から筆者に対するノルマゼロも継続されることが予想されるため、変わり映えもしない日常が延長されるだけなのだろう。
支店長からも「お前、また異動しないんだからFP1級くらい受けろよ」というハラスメント( )を受けた。
そのくらい余裕があるという認識なのだろう。
とはいえ実情としてはいつも息を切らしながら生きている。
表面上は穏やかに作り笑顔を演出し、波風立たぬよう凪の人生を心掛けているものの、内心としては心中穏やかな日々ではない。
体裁よく折り目だけ整えたような人生、
その成れの果てが今の私を形成している。
◇
そもそも私はこの仕事に対して特段やる気もなく、あろうことか入社前から転職する気満々だった程の体たらくなのである。
それなのに3年も働き続けたという事実に我ながら驚いてすらいる。
「石の上にも三年」とは言うものの、その当人が筆者のような底辺クズであっては何一つ報われないどころか、ただ単に長年左遷されているに過ぎない。
甲斐性もなく惰性で生きている。
挙げ句の果てには自分の支店の新入生が1年足らずで本部に異動とは。
一体自分という人間は何者だというのか。
凪を軸に据えて生き抜いた結果、むしろ透明人間になっているのかもしれない。
◇
近況報告を最近していなかったが、それは報告に値するような近況さえ皆無であることに他ならない。
対照的に、筆者の周囲では
「転職しました」
「結婚しました」
「親になりました」
「異動しました」
「引っ越ししました」
「役職に就きました」
「資格取りました(筆者と異なり、かなりの難関資格)」
などと、生活様式さえ変わるような大きな変化が起きている。
コロナ禍の新しい生活様式こそあれ、それはまだ私にとってターニングポイントではないのだ。
こんなことを言うと「周囲の人だって変化が起きているのではなくて、自らそのようになるように行動した結果、変わっただけ。ただ待ちぼうけしているだけのお前(筆者)とは決定的に違う」といつか窘められたような教科書通りの叱責をされるのだろう。
むしろそれで然るべきである。
20代は現在進行形で起きている椅子取りゲームなのだ。
現実を生きることができていない筆者には座るべき椅子すらも未だに見出だせていない。
気が付けば音は止み、持て余した人生を見つめてただ立ち尽くすだけの人生がまさに眼前に控えてすらいるというのに。
コロナ禍、このように人生を掌の上に載せて眺めてばかりいる。
どこか他人事のような人生。
その責任をとるのも、舵を切るのも私以外存在し得ないというのに。
只管現実に溺れに溺れ、耄碌するのを待つのみなのか。
◇
とかく現実は生きにくい。
生きにくいが、生きることが不器用な筆者ながら奇しくも堪え忍んでなんとか生き抜いている。
石の上にも三年。
いつかの記事にも記したが、この我慢は建設的な我慢であったのだろうか。
https://happiclearfile.hatenablog.com/entry/2019/10/14/132030
生産性のない我慢の末路など究極的に不幸自慢に陥るだけである。
この我慢に先はあるのか。
行き止まりだとしても進むべきなのか。
自分の居場所くらい弁えている。
だが、弁えてばかりでこの人生、本当にこのままでいいのか。
身の程知らずであっても、無駄だと自覚していても、重力に逆らうべきではないのか。
もはや一刻の猶予もない。
ただちに「今」を生きねばならない。
明日から社会人4年目。
決して人生を蕩尽しない。
と、ここにn回目の誓いを立てる。