あと1点で落ちた。
コロナ禍、複数の資格試験を受け続けている。
(別に必要ではないのだが、自分自身の価値を少しでも上げようと足掻いていた)
及第点以上の努力を惜しむようなコスパ主義の底辺クズが招いた結果がこれだ。
1度だけではない。
あと1点、あと1問、あと1位で切り捨てられた経験が何度もある。
これも一種の悪癖、あるいは病なのかもしれない。
学校の試験、自動車免許(宮城の合宿免許で受けた効果測定・仮免では95%前後だったので本番を甘く見ていた)、某資格試験、某採用試験…etc
性格上態々開示請求手続をするのだが、いざしてみると自らがその所謂「ボーダー」未満なのだと思い知る。
◇
自分の立ち位置を自覚するのはそのように線引きされた瞬間だと思う。
1か0かでカテゴライズされるとき、往々にして私は0と区分される。
なんとなく肌感覚のみで知覚していた境界線が可視化される瞬間。
時にそれはあまりにも無慈悲で残酷なこともあれば、形容しがたい安堵を齎すこともある。
私の立ち位置は「此処」なのだ。
線引きとは所謂「向こう側」には行けない、資格がないと烙印を押されるプロセスにほかならない。
こうしてまた私は貴重な今この瞬間を落伍者として噛み締めるのである。
◇
n回目の落伍者。
現代において社会的地位の再生産が叫ばれるものの、少なくとも当人の努力・才覚によって変動しうる余地が残されている。
だからこそ自己責任論の蔓延る時代ではあるが、それを甘んじて受け入れられるほど私は成熟していない。
その未熟さ故に成長の伸びしろはまだ残されているのだとしたら、それは今すぐにでも足掻くべきなのだろう。
然れどあと一歩が届かない。
いい加減自分自身を見限るのをやめろ。
己の現状を嘆けど、それを打破すべく日々邁進する気概を持ち合わせずして如何とするのか。
悩まず考え、臆せず実践しろ。
◇
気が付けばもう社会人4年目である。
将来の青写真すら無い無計画な人生。
今を嘆くことより、これから先
少しでも嘆かず済むように変わらなければ。
あと一歩。
されど一歩。
私が憧れている「向こう側」は、
その一歩先にある。