どうも。
幸せハンターの筆者です。
先日、少し考えさせられた一節があります。
◆
「ハッピーエンドになる訳ないんだと、言ってもらえたようで安心した」
◆
もちろん、これは不幸の上に胡座をかいている訳ではないんです。
◇
今日における日本の現実世界において、本当に不可能な人もいるんです。
上記について個別具体的な説明は個人情報にも繋がりかねないので仔細に言及できないのですが、ここまではいかなくとも誰もが現状に甘んじてしまうことは往々にしてあると思うんです。
◇
いつかインドの経済学者・哲学者であるアマルティア・セン(大学受験の勉強範囲だったので記憶してるだけでそこまで詳しくありませんが)が、
「飼いならされた主婦、あきらめきった奴隷は、ほんの少しの幸せでも満足してしまう」
とし、弱い立場の人々が潜在能力を生かし、社会参加すべきことを主張していたように、本当にそういった所謂弱い立場とされる人あるいはそうでなくても同じ経験をしてきた人もいるんです。
しかもそれは、その当事者の責任による帰結でもないんです。
例えば、いじめられた被害者に対して「いじめられたのはお前の顔が醜いのが原因なので、お前にも責任がある」だなんて事象が実際にあります。
こんな人権侵害の一つが、この令和時代でまだ色濃く残ってしまっているのは令和の悲劇と言えるでしょうが、やはりそれは当人に責任の片棒を担がせてはいけないと思うんです。
不登校経験者である筆者が社会的弱者側の論理を主張するのは御都合主義なのかもしれませんが、それでもやはり、間違ってることは正せるのであれば正しておきたいです。
◇
だからこそ、「ハッピーエンドになる訳ないんだと、言ってもらえたようで安心した」の裏側には冷遇・酷遇を耐え忍んで生き抜いた末の学習性無力感(Learned helplessness)というコンテキストがあることにも思いを馳せてほしいと思います。
そして、その冷遇・酷遇の吐露を「不幸自慢」とカテゴライズしないでください。
「他者都合による事象に対する生存適応」をこれ以上虐げないでほしいと思います。
ええ、そうです。そうなんです。
「生まれながらにして負け組」というレッテルを貼られても、まだ私は生きていきます。