20代にしがみつくブログ

20代元金融マン。やっと2000万資産達成。東証一部上場企業勤務(プライム市場になりましたね)。FP2級(法人+個人)。一種教員免許。証券外務員1種など金融商品取扱資格全般。銀行検定各種保有。IT関連資格保有。国立大卒。7年連続で映画を年間300~700ほど鑑賞。痛すぎるプロフィール。ずっと20代でいたいブログ。最底辺の負け組人生やめます。

我慢の終着駅



24歳、独身、田舎、
地元斜陽金融企業勤務(一応は東証一部上場)。





我ながら自分のステータスの低さに日々辟易するが、業務において様々な人と折衝することによって最近はいろいろなことを考えるようになった。



世の中にはいろいろな人がいる。
いろいろな人生がある。


日々「正解したい」「正解になりたい」と思っているが、そんなことは現在進行形のミクロスコープの尺度で捉える限り到底判断できるものではない。


今選んだ道が将来好転するか、暗転するか等は誰にもわからない。


かといって今この瞬間を確かに生きている以上、マクロ的な視点では平穏だとしても、様々な事象に対して様々な感情を注ぐことが間違っているとも思わない。


今考えていたり感じていたりする数々がすべて無意味ではないし、悩みや迷いもプロセスの中で無価値ではないと思う。






けれど、この人生、我慢をしすぎている。


以前、開腹手術で12センチも切開したのもそうだ。
人生最大の激痛などという耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ結果、一生残る大きな傷痕を負った。


72歳の父親から受けた教育の末路がこれだ。
痛いと叫んでも暴れても、憔悴しきった私に対し、決して救急車を呼んではくれなかった。
呼ぶことを許してくれなかった。

昔の家柄なので救急車を呼ぶことで体裁が傷つくことを気にしたと言っていたが、そんなもののために自分の人生を無為に吹き飛ばされては堪らない。

2つの病院を回っても誤診で、3つ目の病院で漸くだった。
あと一日遅かったら死んでいたと言われたほどの段階だった。
本当に全然大した病気でもないのに、たまにニュースで同じ病気で死んだ有名人や緊急入院した人を見つけるとやはり他人事とは到底思えないし、軽視されがちだがあの時確かに私を蝕んでいたのだと今更になって思うところがある。

(もちろん私も私だった。当時高校生だったが、2度病院に行って解決しなかった時点で救急車を自分で呼ぶことも頭になかった。今思えば高校生なら自分で救急車を呼ぶべきだったのかもしれない。とは言え前提条件として、既に病院に行って誤診で追い返されてるのだが。)




そんな家庭環境でも上司など周囲の人には
「育ちがいいね」「甘やかされて育ったんだろ」
などと他人行儀で心無い言葉ばかり浴びせられる。

別にそんな人に理解など求めてはいないが、
だからと言って不服な待遇を耐え凌ぐ意味はないはず。




現在の就労先についても同様だ。

石の上にも三年などというが、これ以上自分を犠牲にして良い訳がない。
果てしなくただ若さを浪費している。





我慢なんてしてはいけない。

するべきではなかった。

泣いたところで私はもう既に傷物に成り下がった。

商業価値も地に落ちる(そもそも無いが)。









モットーとして、せめて外見だけは悩み一つない脳内お花畑の快活な人間を目指しているのだが、現実は思うようには伴わない。

何の苦労もしてない人だと思われて構わない。

むしろその方が都合がいい。

本当の背景を知らない人に好き勝手言われようが戯れ言に過ぎない。
勝手に勘違いして勝手に判断して勝手に思い込んでくれて構わない。



なのにどうしてここまで傷ついてしまう?

















豆腐メンタルすぎてこんなにもすぐ崩れ落ちる。














さて、本題。

世の中には建設的な我慢と非建設的な我慢が存在する。

上記の通り、筆者の場合は非建設的な我慢が多い。





我慢する価値など無い我慢だ。

この我慢の末路には何もない。

何一つ報われることのない我慢だ。






忍耐は大切だと言われるが、それは建設的な我慢に対してのみ当てはまる。







世の中に蔓延っている我慢の半分は、ほぼ自傷行為に近いものだ。


しなくていい我慢は称賛されるべきではないし、むしろ負の副産物をも生じかねない。


「私は今まで○○頑張ったのに~」
「私が若い頃は○○したけれど」


など、多くが逆説的接続として用いられ、自らの非効率さや徒労に帰した経験をひけらかす自虐的自己紹介や地雷アピールに他ならない。
(その惨めな構造を理解していない人も多い)


そんな我慢をするより、もっと自分の価値を高めるための努力に対する我慢をするべきだ。
(特大ブーメラン)









同様に筆者の今までの苦労も決して評価されるべきものではなく、水泡に帰すだけの無価値なものだった。


苦労したという観点では確かに一定の水準以上は認められるが、だからといって特段のスペックがあるわけではなく、痛みの数々や他人からの罵詈雑言を凌いできただけにすぎない。


確かに自分の中の経験として蓄積されてはいるものの、それが必ずしも自分の価値を高めうるものではない。

時にはトラウマとして今後の人生に憑いて回ったり、あるいは他人との折衝の中で無意味なことだったりと、思考停止で苦労体験を強いる(または推奨する)世間の潮流について甚だ疑問を呈する。


また、そういった過去に対して「○○の経験があるなら同じことがあっても耐性があるから大丈夫」という謎理論についても脳筋のそれでしかない。






いじめられたことがある人は何度いじめられても慣れてるから大丈夫なのか?

人間関係に失敗した人は次には必ず良好な関係を構築できるのか?

体育会系で厳しい部活を乗り越えた人は全く関係ない仕事においても他人のそれより必ず有能なのか?











免疫?

違うだろ。









その痛みは確かな痛みであり、何度繰り返しても、何度乗り越えても決して楽なものではない。

そして、過去の苦労や経験は必ずしも今現在の自分に対しプラスに作用するとは限らない。







確かに限られた範囲のことについては、過去に乗り越えた経験が大いに役立つことがあるが、他人行儀で普遍的に「大丈夫」と言うのは果てしなく無責任で無神経だと自覚を持つべきだ。

少なくとも、それは他人が「大丈夫」と決めつけて良いものではなく、あくまで当人のみが判定しうるものだ。





人生に「免疫」という概念があるという幻想を捨てろ。



まずは世間の潮流を今一度見つめ直し、それに倣うことが果たして正しいのか、よくある発言やテンプレートな返答が相手に与える影響を理解してほしい。






















さて、今日の我慢の行き先は何処に向かうのか。

一体いつまでこんな茶番を繰り広げるのか。

せめてこれからは、こんな自分でも愛せるように。

せめてこれからは、未来のある我慢をしたい。