よっぽどアイツの方が人生を心得ている。
今何をすべきか。
この若さのタイミングにどう過ごすか。
今までなあなあに生きてきてしまった。
いつだって過去の延長線上を生きている。
境界の無いライフスパンのせいか、まだ高校生を脱しきれていない。
学生時代、何か変われたらよかった。
思えば成長期もなかったため、身体的変化がなかったことで境界が曖昧になっているというのも一因だと思われる。
そう、成長したい。
変わりたい。
筆者は教育学部出身なので、
変化・改変・成長がもたらすあまり世間では捉えられない意味について深く考えてしまうようになった。
肯定的に捉えられがちな変化・改変・成長だが、それはむしろ否定のプロセスに他ならない。
成長するということは、言うなれば今までの自分ではなくなることだ。
今までの自分が否定されることだ。
(参考:教育学の授業・書物等より)
変化・改変・成長とはもはや戻れない一つのプロセスであり、それを喜ばしく思うか悲しく思うかは捉え方次第である。
筆者はとにかく只管成長したい人間だった。
変わりたかった。
成長することで、「自分が嫌いな自分」が少しでも消えていく。
もはや「自分が嫌いな自分」は過去になり、新しくなった自分は前よりもっと「自分が好きな自分」になれる。
向上心、成長を志向する姿勢、
これだけが筆者の唯一の長所である。
伴わない自分も同時に存在するが。
P.S.
心の傷ついた子どもは変化・改変・成長を促す行為である「指導」に傷つくことも多々ある。
上記で述べた通り、その「指導」によって自分自身が潜在的に否定されるからだ。
「勉強をしなさい」
→勉強していない今現在の自身の否定
「物を使ったら元の場所に戻しなさい」
→物を使って元の場所に戻せない自身の否定
「人に優しくしなさい」
→人に優しくできない自身の否定
「そろそろ大人になりなさい」
→この期に及んで未だ「責任ある確固たる強い個人」になりきれない自身の否定
挙げたらキリがないが、すべての指導は「今現在の自分自身」の否定を孕んでいる。
指導はすべて暗に「自己否定」を促す作用を持っている。
このように、言うことを聞けない子ども(あるいは大人)の背景には「他者からの自己否定」を受容できないということがある。
よくいる巷を騒がす人達が他者からの声を素直に聞けないのは、所謂その「他者からの自己否定」を受容できず、自己保身に走るためだ。
だから他者の言うことを聞かないし、今現在の自分自身を肯定する行為(意志・欲望に赴くまま)をその衝動に駈られて履行しようとしてしまう。
そこで大切なのは、その指導(相手を変える手立てとして促す行為)が相手にとってあたかも自分自身で気付いたもので、自分が主体となって能動的に選択したと思わせることだ。
優れた人というのは、その気付きの機会を設定することができる人だ。
あの人は全て理解していた。
未だに僕は何も手にしていないというのに。
いつか、そんな風に