20代にしがみつくブログ

20代元金融マン。やっと2000万資産達成。東証一部上場企業勤務(プライム市場になりましたね)。FP2級(法人+個人)。一種教員免許。証券外務員1種など金融商品取扱資格全般。銀行検定各種保有。IT関連資格保有。国立大卒。7年連続で映画を年間300~700ほど鑑賞。痛すぎるプロフィール。ずっと20代でいたいブログ。最底辺の負け組人生やめます。

角田光代 救済について

※宗教の救済ではないのであしからず。














2021.1.10の日経新聞の文化欄を読んだ。

救済について : 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO67994200Y1A100C2BC8000/








まさに筆者そのもの。
今まで興味がなかった文化について、このコロナ禍で所謂沼にどっぷりと嵌まったことについては既述の記事にて記した通りである。

https://happiclearfile.hatenablog.com/entry/2020/08/29/111722







そうだ、確かに私は救済されていたのだと思う。

2020年、こんなはずではなかった。

恐らくほぼすべての人が同じ事を思うだろう。









人生において向かい風吹き止まぬ今日この頃だが、不幸中の幸いなのか仕事についてはむしろ凪といっていいほど穏やかな状態にはなっている。

社会人3年目にして、未だに1度も異動することなくしかも同じ係・担当を続け、極めつけにはノルマゼロ。






就業先は金融業なのでこのコロナで寧ろ上半期は過去最高益を更新している。

2020年6月からフレックスタイム制適用者に就労区分も変わり、退勤時間も自らの裁量でド田舎の絶望的な電車ダイヤに合わせられるようになり、柔軟に早帰りすることが可能となった。

10月にはほぼ1年がかりで進めていた案件を片付けることができ、漸く余裕も出てきた今日この頃。


だからこそ、環境の変化が恐ろしい。
今が快適すぎるのかもしれない。










それもこれも、推しに救われてからどれも変化している。

タイミング的な問題もあるが、
推しは私にとってまさに転機の子だった。




























角田光代
「ウイルスが目に見えないのと同じように、苦しさも不安も逼迫も目に見えない。それらが体調にあらわれることはあるが、私のように鈍感だと、自分がどれほど追い詰められているかわからないときもある。音楽によって救われたと思うときが私には幾度かあるが、救われているそのときは救われているとは気づかない。ただぼーっと、何も考えずおんなじアルバムや気に入りの音楽を聴き続けている。救われたずっとあとに、ああ私は音楽に助けてもらったのだと気づく。」













筆者も同じだ。
振り返ってみれば沼に守られていた。












筆者にとっての沼。

半年足らずで20作品を踏破した。
(1作品あたり10~20時間ほど)
しかも半分ほどは苦手な英語で。

(日本語への互換性があれば良かったのだが、もはやほかに選択肢は無かった。唯一かろうじてわかる言語が英語しかなく、やむを得ず英語で咀嚼したにすぎない。英語力は皆無なのであしからず。)







しかし、最近は複数人のメシアにより英語も不要な場合もあり、資格試験も相まって1ヶ月ほどブランク気味である。

それでもたまに覗いてみると、やはり沼は沼。

気がつけば底なし沼に時間を奪われている。











角田光代の記事では、締めくくりとしてまだまだ現在進行形の沼に対してこれからも救われ続けるのか、佐野洋子(「役にたたない日々」より)氏のようにいつかパタリとやめる日が来るのかわからないと締めていたが、実際それは沼に限らず万物について言えることだと思う。





万物は流転する。
パンタレイ(panta rhei)






高校時代にサラッと学んだだけで今7年ぶりくらいに思い出したが、このヘラクレイトスの言葉の通りだ。



すべて移りゆく。
この感情も、この決意も。

昨日の自分も、今日の自分も、明日の自分も全く同じではない。

1年前の今日、まさか世界がコロナウイルスによりここまで変容すると誰もが予想だにしなかったように、何事もわかり得ない。



沼が沼たり得るのも当然ではない。

万物には必ず終わりがある。





時間の経過により風化していくことは避けられないことだが、少なくとも今この瞬間、たとえ依存的関係性であるとしても毒性の強い劇物だとしても、その落差を考慮しても余りあるほどの救済として存在するものがある。






別に私は刹那主義ではない。

しかし、今を生きている私達人間にとって今を今として生き抜くうえで、確かにそこに救いはある。