境界線。
世の中には、仕事で水色のシャツや茶色の革靴を身に纏えるタイプの人間とそうでないタイプの人間がいる。
私は向こう側には行けない。
もちろん「そもそも持っていない」訳ではない。
きちんと新品のまま箪笥に収納しており、それを着る勇気あるいは資格を持ち合わせていないだけである。
◇
100分de名著「赤毛のアン」にて茂木健一郎が言っていたが、「アンは【自分は赤毛だから幸せになれない】と思うことにしてしまっている。」と解説していた。
自らが決めた規定をまるで普遍的規定であるかのように位置付け、それに合致しない自分自身は「幸せになれない」のだと。
これは赤毛のアンに限った話ではなく、往々にして散見される一般的な傾向だという。
バートランド・ラッセルの「幸福論」においても示唆されていたが、幼少期に植え付けられた社会規範や価値観がそのまま幸福の価値観に結びついており、それに逸脱することは一種の「罪悪感」として知覚される。
だが、それをアンのように「自らが決めた規範」と呼んでいいのだろうか。
それは過去に「それ」により冷遇されてきたことに起因する「経験的学習」ではないのか。
自らが冷遇されてきた「赤毛」という理由を、本来冷遇されるべきでないものだと数年後に言われたなら、「では何故あの時私は冷遇されたのか?」「他に冷遇されるべき指摘点は、他者のそれより顕著なのか?」と考えるのが普通である。
「幸せになれない理由、むしろ不幸の理由」として片付けて生きてきたものが、実はそうでないのだと解明されてしまえば、今までなんとか折り合いをつけてこられたものが崩れ去ってしまう。
赤毛のアンは「赤毛は不幸たる所以」だと当時の周囲の価値観に規定されていたというのに。
◇
つまり、道徳律や行動規範が捻じ曲げられている。
他者の奔放具合や趣味嗜好、当時の世間の潮流によってこれらは移ろいゆくのに、幼少期に刻み込まれた価値観はその後もなかなか変化しにくい。
けれど事実としてその道徳律や行動規範が誤っているのなら、いつかは矯正して然るべきだろう。
実際に現在、少しずつ重力に逆らう心づもりで、日々を生き抜いている。
「間違っている」ことは確かにわかるのだが、何が正しいのかは未だにわからない。
それでも、少しずつ。
いつの日か、
水色のシャツや茶色の革靴にも抵抗なく身に纏える日が来るまで。