仕事ツラいと言いつつも、そのツラさは偏に筆者の無能さに起因した自己への追及から来るツラさであるからして、絶対量としては忙殺されていない。
そのため、ドラマや映画鑑賞・レジャー等の時間は優に取れる今日この頃、特に「獣になれない私たち」というドラマに嵌まっている。
今日述べておきたいのは、11月21日の同番組の放送で松田龍平演じる会計士・税理士の発したパワーワード「不幸の背比べは楽しいですか?」についてである。
不幸の背比べほど残酷で無慈悲な競争はない。
あなたの苦しみも僕の苦しみも、今この時間を生きている自分達にとって確かな苦しみだ。
あなたは苦しんだ。
僕も苦しんだ。
その事実に大も小も関係ない。
人間は決して自分以外にはなり得ないのに、他者の苦しみを推し測ること自体がナンセンスだ。
それでも泡沫に消えがちで時間泥棒な「不幸の背比べ」でさえも人生においては必ずしも無意味ではないと思う。
所謂「不幸の背比べ」をするのは立ち直るためのステップの1つだと思う。
思い切り悲しんで、自己憐憫に浸ることさえも個人の権利として大衆に理解される日が来ても良い時代のはずなのに。
相手の痛みや悲しみを受容せずに、
やれネガティブだ根暗だ卑屈だなどと揶揄してばかりの不寛容なご時世。
そもそも悲しいことがあっても悲しまないのは感受性が著しく欠如しているか、その人にとって取るに足らない些末な出来事であるかに過ぎない。
何故その人の悲しみの元凶に思いを馳せることなく、その人自身に対し「ネガティブ」などと烙印を押すなどという野蛮なことを世間はしてしまうだろうか。
思えば、悲しみに打ちひしがれている人に手を差し伸ばすことなく、むしろ冷遇するなど人道に反する行為ではないだろうか。
そうした卑劣な事態が罷り通る現代では、獣になれる者ばかりが跋扈し、理性ある人間ばかりが損をする非人道的構造が形作られている。
「不幸の背比べ」とはそんな生き地獄を生きる哀れな自分を肯定するための手段の1つなのである。
自分を保つ術としてやむを得ず「不幸の背比べ」をしているという背景にも目を向けられるような社会が来る日を祈っている。