20代にしがみつくブログ

20代元金融マン。やっと2000万資産達成。東証一部上場企業勤務(プライム市場になりましたね)。FP2級(法人+個人)。一種教員免許。証券外務員1種など金融商品取扱資格全般。銀行検定各種保有。IT関連資格保有。国立大卒。7年連続で映画を年間300~700ほど鑑賞。痛すぎるプロフィール。ずっと20代でいたいブログ。最底辺の負け組人生やめます。

立派な人間




















自分に刃や矛先を向けて生きてきたのは、究極的には相手を変えることよりも自分自身を変えることの方が難易度が易しいからなのだろう。付け焼き刃な対応策ではその場を取り繕えても恒久的には立ち行かなくなる。思えば26年間その日暮らし的方策でやり過ごして生き抜いてきたのかもしれない。先日、「主体により発生したある刺激があったとして、その刺激に対しての客体(自身)の反応の方向性は内部に向くのか?外部へ向くのか?」といった趣旨の問い(言うまでもなく実際はかなり具体的な内容なので抽象化している)に対し、「内部」と即答した。すると「その刺激の元凶の主体は果たして立派な人間なのか?」と問答が続き、私は暫く返答に時間を要した。「立派な人間」。考えてみれば誰しもが其れたり得ない且つ判断基準が主体により各々揺れ動くため、頗る卑怯な問題提起である。禅問答的投げかけに対し真正面から真摯に受け止めるのは非建設的だが、それを勘案しても「立派な人間」という指標については一考の価値はあるだろう。今回の話者のトークパターンとしては、その刺激から発せられたベクトルに対してそのまま反射して然るべきだというものであったが、所謂「立派な人間」でなければその刺激を受容する必要はないとまで割り切れるほどそう単純なものではないと感じる。それにしても「立派な人間」とはこれ如何に。いつかスピノザの著作に「人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することであり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存する(ETHICA第四部付録)。」とあったが、立派な人間とはこの完成者なのか。やはりそれならば誰もが到底成し得ない(肯定も否定もどう答えても不正解になる)時点でソクラテス的な問答である。それでもいつか「立派な人間」になりたいと切に願う私はもはや傲慢なのかもしれない。