最近「結婚」について、非常に難易度の高い資格だと感じる。
それでも子どもの頃はというと、当たり前のようにいつかは大人になって誰かと結婚すると思っていた。
まだまだずっと先だと思っていたことが、ふと気がつけば身の回りでは当たり前のように生じており、もはや遠い先の未来の話ではないのだと痛感する。
実際社会人になってみると
「結婚?自分の人生決めるには早すぎない?自分自身の人生にさえ責任持てないのに他人の人生の責任なんて本当に正当に果たせる?そもそも誰かに選ばれるようなステータスなんて持ち合わせていないし」などとずっと思っていた。
しかし仕事柄、住宅ローン等の業務に際して、結婚している人々と接する機会が度々あり、少しずつその認識も変わり始めてきている。
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「結婚」は1つのステータスという側面もあるが、結婚しているからといって全員が「誰かと結婚できるステータス」を持ち得ている訳ではない。
一種のカテゴライズ要素として機能することも往々にしてあるが、結婚によりステータスの底上げなど100%確実に発生するわけもなく、また人間性の向上も各々跛行性がある。
昭和時代には「結婚は人生のゴール」「幸せの極致」などと叫ばれたが、現代人にとっては結婚は人生の通過点における選択肢の1つに過ぎない。
また、「結婚は人生の墓場」というフレーズすら存在する。
一世を風靡したトレンディドラマの数々がその奔放ぶりを物語っているといえよう。
結婚=勝ち組という社会構造は、戦後を自由に生きた先人達により構築され、そしてその後同様に先人達に壊されたのである。
そして、世の中には複数の×を持つ人々が存在することによってもバランスが取られていることも無視できない事実である。
平均婚姻回数を底上げしているのもまた昭和の先人達によるレガシーである。
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では自分にとっての結婚とは何なのか。
思えば結婚どころかまともな恋愛すらしたことがない。
数人と交際したことはあるけれど、私の自己肯定感の低さのせいかどれも実を結んだことがない。
いつか某人気リアルドキュメンタリー番組にてパーソナリティーが視聴者投稿を読み上げていたが「20代という人生の旬の時期にさえ誰からも歩み寄られないのなら、この先もずっと独りなのだと毎晩寝る前に思う。」というフレーズが忘れられない。
投稿者は笑い話として昇華していたが、その笑いはニヒル的かつシニカルなものであり、私には到底笑えるものではなく、そしてパーソナリティーの2人も丁寧に扱い投稿者を労っていた。
自らを卑下することなく事実を挙げると薔薇色的なエピソードは幾つか経験しているが、人生において所謂勝ち組か負け組かと区分されるとしたら間違いなく私は負け組に分類されるそれであることは自覚している。
だがこのコロナ禍、そもそも職場と自宅の往復で帰結する日々を送っている今日この頃において自らアクションを起こさない限り人生に転機など訪れることはない。
どうやら結婚の資格取得はまだまだ先のことらしい。
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そうした経緯もあり、試しに毎月の資格試験ついでに転職試験も受けてみようととりあえず申し込んでみた。
転機など他人任せにするのではなく、自ら能動的に起こすべきなら、まずは一歩。
結婚の資格より、幸福の資格試験に臨むべく。