底無し沼に沈んだ。
コロナ禍、自粛要請が続いており、最近はやむなく家に籠り闇雲にコンテンツを消化してばかりいる。
先日は1日だけで12時間以上に亘る作品の初回~最終回に加え、その他映画やドキュメンタリー、バラエティにゲームも同時並行で消化するという蛮行に走ってしまった。
昨今において、もはや文化は消費するものと化し、既に現代は文化大量消費時代となって久しい。
サブスクリプションサービスが普及し、溢れ出る文化の大洪水に侵されている背景のなかでは筆者のように文化に溺没する人も珍しくないのだと思う。
だが、文化の洪水に溺れつつも別に「年間200~500本映画を鑑賞する(学生時代からの6年間で)」などという量的消費だけに価値を置いているわけではないことを補足説明しておきたい。
確かに事実として膨大な時間を文化の消費に無駄に費やしているが、それは別に無闇に数をこなすことに意味を見出だしているわけではない。
かといって、本当に価値のある作品1つの鑑賞に全身全霊を注力することにのみ専心する質的消費だけに価値を置いているわけでもない。
何事も中庸が大切だ。
今は偶然目の前に手を伸ばせば届く距離にその文化の数々があり、自分の意志次第で手にすることができる時代、用法用量を守って正しく消費することが肝要である。
ただ、どうしようもなく筆者は焦っているためこのような惨憺たる事態が起きているのだと思う。
20代、このままコロナ禍で終わりゆく?
本来であれば20代のうちにたくさん海外旅行して、富士山にも登って(2020年やりたいこと第1位だった)、行きたいところやりたいこと全部やることが目標だった。
怠惰で無気力な自分だが、それを勘案しても実際昨年については我ながらよく頑張ったと褒められるくらいには活動したと自負できる。
例に漏れず今年も既に複数計画を立てていたが、コロナ禍で見事に頓挫した。
瓦解した。
融解した。
虚無。
周りの友人?知り合い?顔見知り?達はハイステータスを身に纏い、所謂ハイスペックとしてどんどんキャリアアップし、どんどん結婚し、どんどん憧れが強くなる一方。
一方筆者は?
掌中には何もない。
自堕落なりに苦しんでそれなりの水準程度には獲得するように努めてきたはずが、25年生きてきて未だに何も掴めていない。
掴みかけても全て指の間からすり抜けていく。
思えば高校時代もそうだった。
ホイットニー・ヒューストンの「I have nothing」を聴いて、いつか筆者にも「誰か」がいたら何かを持てるのかと考えていた。
ずっと他人本意で自己研鑽に励むことなく自堕落に靡いてばかりだった。
頑張ることは「頑張ったところでできない自分」を露呈しそうで恐ろしかった。
本当はたとえその「誰か」がいようがいまいが関係ない。
20代のうちに本当にするべきことは、「自分にとって何が価値があるのか」を知り、何か武器になるような光る何かを身に付けることなんだろうと思う。
その隙間に入り込んできた文化の洪水。
抵抗することなど念頭に無く、思考停止で受け入れてしまった。
息をするように文化を消費し、当たり前のように日常に織り込み済となってしまっている。
頭ではこれが本当に今するべき事ではないことくらいちゃんとわかっている。
つい先日も、コロナ禍で身動きが取れないので何か1つ資格を取らなければと焦燥感に駆られて資格試験を2つ申し込んだ。
だがしかし、前述の通り耽溺しているので勉強はほぼ皆無と言ってもよいほどに無対策である。
20代、本当にこれでいいのか?
これほどまでに試験勉強に注力できる年など他にないはずなのに、今やるべき勉強を蔑ろにしてこの先の人生 通用すると思っているのか?
更生したい。
「たい」ではなく過去形にしなければ。
まずは呼吸をば