「台風は良いよな、進路が決まってて」
高校生の頃によく言っていたフレーズを久々に思い出した。
もっとも、最近では台風も進路に迷うことが多々あり、純粋に羨むことができなくなってきているが。
最近多い路頭に迷う台風の図。
台風ですら夏の気圧配置と順行な流れに逆らって邁進しているのだから、我々人間も就業先にただ隸属し慣例に従うばかりでなく、たとえ五里霧中の将来にでも一歩踏み出すべき時代が到来してきているのだと思う。
これを前置きに言いたいことは、「幸せ」についてである。
思えば中学生の頃からずっと考えてきている。
「幸せってなに?」
「何してるときが幸せ?」
筆者は付け焼き刃な答えとして
「寝てるときかな?二度寝とかマジで最高。あれは麻薬」
とテンプレートな回答をするが、実際問題としてそれは「幸せとは?」の解答として不適切だ。
最近はより一層、深く考えている。
「自分にとっての幸せとは?」
こう見えて旅行や映画、音楽、様々なイベントをかじっているため、意外とアクティブなのかもしれないが、そういったことに勤しんでいても一度も幸せを実感したことがない。
後になって「あのときは良かった」と振り返るばかりで、幸せというものを噛み締めたことがないのである。
前提として、筆者の現在の価値観が醸成されるまでの過程として中学時代・高校時代は外せないので、少し身の上話を挟む。
自分語りも甚だしいが、それに耐えうる人は下にスクロールしてほしい。
限界集落の田舎出身であるため、筆者のような浅学非才の死に損ないでも、きちんと先生の授業を受け(授業中立ち上がったり常に横や後ろを向いていたりしたが確実にノートは全て書いており、しかもほぼ全ての先生が好きだったため動き回っていただけで決してふざけていた訳ではない。今思えばADHDと揶揄されてきたのも納得である。)、宿題を確実にこなし、バスケ部として地獄の練習メニューを愚直にこなせば、成果というものは確かに表れるものである。
限界集落のため、都会に比べレベルが低いことは否めないが、以上のように最低限度のやるべきことを愚直に継続すれば、筆者のような顔面崩壊チビデブ性格クズ無能でもシャトルランクラス1位、学力テストクラス1位(学年全体で2位)くらいには落ち着くのである。
加えてピアノ(中学生当時は習っていなかったが)も泣きながら愚直に練習したので、拙いながらも3年間合唱コンクールや校内イベントで弾かされれば、必然的にヒエラルキーも変化する。
上記の結果、自惚れと言われても仕方ないが、筆者の中学時代は客観的には所謂 薔薇色という言葉で表現されるものであった。
それが幸せではなくても、少なくとも比較的恵まれた内容だったことは、黒歴史である高校時代で思い知ったのである。
今まで手に入っていたものがなくなると、流石に筆者のようなバカでもその大切さに気付く。
あれだけキラキラと輝いていた時期はもう二度と来ないのだろうか。
「手に入っていたものがなくなった」という言葉から想像できるだろうが、高校時代は黒歴史そのものであった。
限界集落から少し離れ、電車で30分ほど遠くに位置する同じく田舎の自称進学校に通ったのだが、それでも井の中の蛙であると思い知らされた。
今まで人並み程度にしか努力したことなかったため、学力も学年全体で20位以内、スポーツも靭帯損傷のため帰宅部に成り下がった筆者にとっては地獄、おまけに県庁所在地から通学してきている学生の洗練された雰囲気に気圧され、呼吸も儘ならないことが多々あった。
挙げ句、二年次の理系クラスでは限界に限界が重なり、オーバードーズした栄養剤が災いしたのか、消化器官が穿孔し緊急入院で手術し、一ヶ月の休学。(気が狂っていたので、確か一瓶まるまるの錠剤を飲んだ気がする)
漸く学校に復帰しても、初めて声を掛けられた言葉は、「おはよう」「大丈夫?」などではなく「筆箱忘れたからシャーペン貸して」であることを筆者は正確に記憶している。
担任が朝会にて「一ヶ月いなかったからノート見せてやれよ」と名指しで学級代表の他の生徒に言った刹那、その女子生徒が「なんで私が見せなきゃならないんですか!?」とクラスのみんなの前で怒鳴り、即逆上したのも印象に残っている。
慎ましく謙虚に卑下して目立たぬように陰日向を立ち回り、愚直に生きてきたはずが、少しズレた歯車ですべて崩れ去ったと思った。
結果として、高校が嫌いになった。
当然である。
これで嫌いにならない人間は、感受性が著しく欠如しているとしかいえない。
ここで底抜けのポジティブ人間は「きっと機嫌悪かっただけだよ!青春は一度きり!楽しもう!」と声を掛けてくるが、そのような思考回路は厳しい現実をあまりにも受け入れていなさすぎるどころか、その背景を理解しようとしないオプティミズムの権化である。
生憎、筆者はマゾヒストではないためその不幸を幸せとは甘受し得なかった。
当人の立場に立てばここまでの苛烈な冷遇は筆者自身に原因があるとしか考えられないはずだが、高校の同級生にそのことを言うと「いや、あのクラスはちょっとアレだったからなあ…ほら、ヤバい奴結構いたじゃん?別にお前に原因があったわけじゃないと思うよ」と。
原因が分かれば我が身を振り返り、今後の身の振る舞いを改めて軌道修正を図ることもできるが、そんな曖昧な理由で青春を持て余されたのであれば看過できない。
現実主義の筆者は学校に居場所を求めるのをやめ、高校以外の地元メンバーとつるんだり、地域の祭り・ボランティアに精を出したりすることになった。
ここでまたすぐ不幸の試練に遭遇した。
思い返せば愚直にもほどがあるが、旧友に紹介された他校の女子生徒とカラオケで邂逅し、その後学園祭やご飯などを重ねた結果、「ちょっと二人で会わない?」と言う甘い言葉に惑わされ、単身、会いに行ってしまったのである。
結果は、真夏の灼熱の車内で一時間の幽閉。
そう、誘われたのは、
宗教であった。
絶望した。
そこまで筆者は哀れなのか?
別にあなたは自分の信じたいものを信じていいと思うが、筆者は何も信じないという信仰のもと生きているのである。
無神論者で宗教を欠片も信仰していない筆者に対する信教の自由の侵害である。
しかも、それを男子高校生の劣情を煽ってまで布教するのは許しがたい。
以来、人を信じるのが怖くなった。
いつもならこの話を数少ない知己に笑い話として昇華するのであるが、こうしてブログで書いてみると甚だ惨めだと思い知った。
こうした諸々の結果、勉強に身など入る訳がなく、病欠してから偏差値は15も下降。
不健全な身体、不健全な精神では勉強など無理である。
予備校にも特別通わなかったため、センター試験本番も3年次の点数よりも1,2年次の方が高いという有り様。
浪人したところで碌に勉強しないだろうと思い、志望先をランクダウンし、なんとか運良く現役で地元国立大学に合格した。
まだまだあるのだが、話せば長い。
ここでそろそろ過去からディゾルブする。
つまるところ、失敗したくない感情が強くなった。
「自分なんかじゃ到底無理」という気持ちがかなり強いが、同時に「それでも幸せになりたい」と思う。
二律背反、アンビバレントな感情だが、それが何より現在を正しく表している。
なお、「あなたはそのままでいいんですよ」などと無責任な言葉は当人を増長させるだけでなく、堕落までさせてしまう悪魔の言葉である。
二度と騙されてなるものか。
非常に生きづらいが、完璧以上に良くありたいと思う。
(ちなみに今回の裏テーマは、この「よくありたい」である。詳しくはアカデミー賞を受賞したジャック・ニコルソン主演の某映画を参照されたし。)
社会人になった今、伴わない自分を受け入れることができていない。
というよりこの期に及んで、まだ過去に生きている。
そろそろ進路を見つめ直すべきである。
先日の台風12号も通常の進路を逆走していたが、台風先生に肖って世相に逆らうことも大切なのかもしれない。
実際問題として、筆者の勤務先は自分の都道府県においては有名企業であっても世界的には弱小の弱小、吹けば飛んでしまうような企業である。
200人超の同期たちと話すと、「結婚」、「転職」、「休日の過ごし方」の話題で盛り上がるが、転職について真剣に考えてみようと思う。
そろそろ筆者は人生において正解したい。
そう、正解したい。
誰かに嫌われるだけの人生をやめたい。
善い人間になりたい。
この世は斯くも生きづらい。
また、今更だが先月から「半分、青い。」という朝ドラを遅れ馳せながら見始めた。
そこでの とある台詞の数々に思わず茫沱の涙を流してしまったので紹介する。
【以下転記】
私には翼がない。
私は飛べない鳥だ。
飛べない鳥が飛べる鳥を見上げて下を歩くのはごめんだ。
人生に曇りの日が増える。
私は自分の人生を晴らしたい。
曇り空を晴らしたい。
私は私の人生を生きる。
【以上転記】
ちなみに飛べる鳥とはこの言葉の矛先となっている自分の師匠である。
何が泣けるって、きちんと前後の文脈を見ていた人ならわかると思うのだが、この主人公、この時点で客観的に捉えてもきちんと翼があるのである。
夢であった漫画家になり、漫画家としてきちんと単行本まで複数出版しており、きちんと十分やれている。
しかし、理想である飛べる鳥、漫画の師匠には遠く及ばない(と自分の中では思っており、自分自身に満足することができない)。
自分の限界が見えたというか、これが限界だと自分自身を自ら見限ってしまった。
好きなものがツラすぎて、もはや諦めたくなったのだと思う。
それが漸く掌中に収められても、もう前に進みたいのだと思う。
諦めきれずにいる自分を相手に切り捨ててほしいのだと思う。
夢が叶って漸く伴えるようになったのに。
これに泣いてしまったのは、ちょうど自分が今、好きなものを諦めたいと思っているからかもしれない。
自分から諦めることができないから、向こう側から諦めさせてほしい。
そしてそろそろ次のステップに進みたい。
思えばずっと同じ場所で蹲って燻ってばかりで。
どうせ自分はかなわない。
願ったことは叶わず、
周りの人には敵わず、
この現実にも適わず、
ただ独り若さを持て余している。
向上心だけは人一倍ある。
そろそろ変わりたい。
前を向きたい。
更生したい。
本当はこんな駄文を綴っている場合ではないとは重々承知している。
しかも今回のブログは支離滅裂で、書けば書くほど学の無さを露呈してしまっている。
滑稽でしかない。
それでも唯一の取り柄である「向上心」を基に、これから更に善くありたいと思う。
さて、そろそろやるべきことに向き合うことにする。
そして、そろそろ幸せになりたい。