高校生くらいの頃から「ずるい」という言葉に惹かれるようになった。
思うに「ずるい」には複数の意味が内包されており、それが筆者の琴線に触れるのだろう。
もちろん「狡猾」「卑怯」「打算的」などという意味あいにおいて惹かれる訳ではない。
文脈的には「のだめカンタービレ」のヒロイン野田恵が千秋先輩に対して放った「ずるい」というのが、背景的にもタイミング的にも近いと思われる。
筆者の大好きな作品でもあるため、恐らく潜在意識にも根差しているのだろう。
上記のコンテキストを知っている人には理解してもらえるのかもしれないが、知らない人にも伝えるためにこの「ずるい」を一般的に説明するには語彙力の乏しい筆者には荷が重すぎる。
簡単に言うならば、「天は二物を与えた、否、二物どころではなく、もはや全てを与えたのではないか」といった感じの「ずるい」だ。
(もちろんこれだけの意味の「ずるい」に惹かれている訳ではないのでそこはご留意いただきたい)
そう、思い返せば自我が芽生えた頃からずっと羨望に苛まれ、憧憬を抱くばかりの人生だ。
この世界は不条理が当然で、別に筆者のために世界が存在するわけではないことぐらい重々承知している。
今日、筆者が消えたとしても、あなたの世界は何も変わらず回り続ける。
別に高望みなどしてるわけではない。
ただ、幸せになりたいだけ。
それだけなのに。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのか。
自分の理想と現実の乖離に苦しむばかりではなく、これでも一応人並みには努力している。
そもそも頑張ることのできない筆者にとっては、人並み程度の努力が最大限であり同時にそれが関の山でもあるのだが、それを勘案しても怠惰な割にきちんと地獄を味わってきている。
幸せになるためにはもっと苦しまなければならないのか。
ここまでくると自己憐憫に苛まれるばかりでなく、自身の非力具合に憤りすら覚える。
人生は幸せと不幸せの差し引きゼロなどと、オプティシズムに毒された人は言いがちだが、世の中そんなにバランスよくできていない。
もしそう心から信じているならば、愈々病院で診療してもらった方が良い段階か、あるいは思考停止で見聞を盲信している愚者としか言いようがない。
苦しんだからといってこれから幸せになれる保証などある訳がなく、同時に幸せを享受したからといってこれから不幸に陥る訳でもない。
確かにそこに落差分の相対的実感幅はあるだろうが
、むしろそれだけであり、トータルを予め知覚できる訳がない。
結局のところ、流れに身を任せるのではなく、自ら働きかけるという行為こそが幸・不幸をわける。
そしてそろそろ筆者はその幸を享受したい。
いつか、あの人に「ずるい」と言われる日が来たら、それは御の字どころかもう死んでもいいくらい生を全うしたと言っていい。
来るはずもないとはわかっているけれど。