悲しいことに、世の中には悪いことをしても罪悪感を抱かない人がいる。
それについて今回は述べておきたい。
筆者は大学時代、発達心理学が好きだった。
(一応この分野の成績は秀だった)
そこで、今回はジークムント・フロイトの書籍から筆者が大学時代にレポートとしてまとめた一部分(総量の100分の1も無いため、文脈を載せておらず不親切だが)を抜粋して記したい。
なお、文献に対するレポートなので文献の言葉をそのまま使ったり、一部( )で内容捕捉はしてあるが、それでもまずは文献を読まなければ文脈が把握できないかと思われる。
好適な環境下(対象としての母親と環境としての母親とがきちんと整えられている状況下)では、複雑なかたちのアンビバレンスを解消するための手立てが作りあげられる。
猛り狂うイド衝動に伴って起こる空想には、攻撃と破壊が含まれている。
それは、赤ん坊が対象を捕食する想像をするだけでなく、対象の持つ内容を独り占めしたがることである。
幼児は、もし母親を捕食してしまったら彼女を失うことになるため不安を体験するが、この不安は環境としての母親による参与によって修飾(影響、罪悪感へと性質変化すること)をうける。
環境としての母親に参与する、あるいは何かを与えてやる機会があるという確信が高まっていくことにより、幼児は不安を内に保持することができるようになる。
このようにして内側に保持される不安は性質を変えて罪悪感となる。
この罪悪感は環境としての母親による参与、修復の機会によって和らげられ、次第に感じられなくなっていくがその持続時間は短いため、修復の機会が与えられなければ、悲しみや抑うつといった形で表出してくる(思遣りの段階まで結びつかない=失敗)。
好適な環境下においてこの流れが順調にいくと、そして、修復の機会が与えられるに違いないということに対する確信が確立すると、本能欲動に結びついた罪悪感はさらに修飾(影響、性質変化すること)をうけることとなる。
それによってその状態の罪悪感のことを、もっと肯定的な意味を含んだ“思遣り”という言葉で指している。
攻撃・破壊(空想)
↓
不安
↓
罪悪感
↓
感じられなくなる
↓
思遣りへと昇華
このようにして幼児は思遣りを持つことができるようになり、自らの本能欲動やそれに結びついた機能に責任を持つことができるようになる。
これは基本的で建設的な要素の1つであり、こういった能力が培われるのは、好適な環境下にあることと、環境としての母親に参与する機会が与えられているためである。
また、幼児はこの発達過程において、思遣りの獲得だけでなく、時間的統合を既に獲得している空間的統合に追加することになる。
ここから考えると、冒頭で述べた「罪悪感を抱かない」という人は、実は思い遣りの獲得の前段階である「罪悪感の獲得」の段階で既に獲得に失敗しているとすると、非常に可哀想に思えてくる。
残念ながら筆者にはどうすることもできない。
あらかじめそう理解しておけば少しはその人に対して寛容になれるかもしれない。
と、思いながら会社のイベントに参加していた今日であった。